生き物こぼれ話(その31)
 この写真はヒノキ(檜)です。ヒノキ科ヒノキ属。常緑針葉高木、大きいものは30mを越える。日本固有種。

 ヒノキの語源は、直ぐ火が付くから「火の木」になったというのが通説になっています。
 
 生長が早く、幹が真っ直ぐであることから、古くから植えられ、スギとともに日本の主要な造林種になっています。

 建築物にしたとき耐久性や保存性が高く、湿度の高い日本の気候に適していました。奈良時代の建造物に見るように、千年以上持つと言われます。

 そのうえ、加工が容易で狂いが少ないなど、世界でも最もすぐれた針葉樹とされています。

 これらの特徴を生かして、古くから、宮殿や神社仏閣の建築には必須の用材でした。さらに仏像などの彫刻用材として、高級家具調度品の材として重用されてきました。
 
 ヒノキの樹皮は赤褐色で縦に剥がれる性質があり、神社の屋根などに「檜皮葺(ひわだぶき)」として使われます。
ヒノキには制菌・抗菌の作用が有ることが知られています。台所のマナイタの材料にはヒノキが使用されますが、古くから経験則の積み重ねによってそれを知っていたのかも知れません。

 ヒノキは江戸時代初期から昭和にかけて、幕府やときの政府によって一環して保護政策が取られてきました。今回は木曽のヒノキを素材にしながら、森林がいかにして守られてきたか、森林保護のお話です。

 江戸時代、 幕府や諸藩では「留山」「留木」と称して、徹底してヒノキ林の保護政策を続けました。幕府は木曾の良質なヒノキに注目して、その管理と警備を尾張藩に厳命しました。尾張藩はそれから約300年にわたり、木曽川上流の木材の伐採を制限することになります。

 これによって、木曾のヒノキは厳しく伐採が禁じられ、アスナロ(翌檜)やクロベ(黒部)は ヒノキと良く似ていて紛らわしいという理由で、併せて禁伐とされました。「木一本、首一つ」「枝一本、腕一つ」と言われる程の過酷なまでの政策が取られました。

 ヒノキの盗伐は死罪だったのです。本来、山で生活していた民はわずかな入会地に閉じ込められ、明治新政府はその禁止区域をさらに拡大していったのです。木曾にはヒノキにまつわる哀話が沢山残っております。 木曾ヒノキ林は秋田スギ、青森ヒバと並んで日本三大美林のひとつに数えられますが、このような過酷なまでの政策により、結果として守られてきたのです。

 スギやヒノキなどの植林地を放置しておくと、地表面にほとんど草本類が生育できないほどの暗さになってしまいます。このような状態になると、表土が流されやすくなって土壌が痩せてきます。保水力が低くなれば土砂崩壊なども発生しやすくなり、台風時には甚大な被害をもたらすことになります。このため植林地には適度な管理が欠かせません。

 このように、スギ・ヒノキ植林地は木材資源を得るためだけでなく、水資源を貯える保水の機能、土砂の流出を防ぐ機能が有ります。しかし近年では、輸入木材の増加等によって林業の採算性がどんどん低下しているため、間伐などの必要な手入れが十分行われなくなってきました。

 ヒノキは、全国に生産地があって各地に有名木材が存在します。このため、有名産地に見せかけた産地偽装が多いとも言われています。これを防止するために、生産から流通まで一貫している特定の業者に対して認証制度を設けている産地も有ります。


こんなお話は興味が有りましたでしょうか? 最後まで読んで下さって有難うございました。

(財団法人日本自然保護協会・自然観察指導員 小 原 芳 郎 記 )


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