2001年11月14日

港北ニュータウン・緑道(5)  

■■港北ニュータウン・緑道 (5) ・・・・・・・・・・・   都市基盤整備公団   武藤孝雄
  
 
 港北ニュータウンには、記録すべき2つのことがあります。

 1つは区画整理事業での「申出換地」についてのことです。
将来の用途地域に合わせた飛び換地によって、希望の場所に換地を行いました。これが、横浜市の5つの副都心の一つになる東急SCや阪急SCのあるタウンセンターの街づくりに実っています。なにしろ、ビルの立ち上がりが目覚しいのです。現時点で、60%の立ち上がりとなっています。

 2つは、都市設計の基本に里山景観を残した「グリーンマトリックスシステム」の公園づくりです。
昭和40年代初期まで、ここの丘陵地域は手付かずの農村として奇跡的に残っていました。丘陵地のすそをめぐる旧道沿いに、見事な屋敷林も多く見られました。 この生活の匂いを保っている在来の緑を、都市設計に残すことが課題として取り上げられました。その方法が、グリーンマトリックスです。住宅地として利用しにくい谷戸沿いに緑の軸線を確保しました。

 19haの総合公園を中心に、4つの地区公園を緑の回廊で結び付けます。2ha規模の15の近隣公園を地域的にバランス重視で配置し、これも、緑の回廊で結びました。公園と公園を緑道と名付けられた回廊がネットワーク化されています。

総延長15kmの緑道には、4.5kmのせせらぎが流れています。
港北NT1317ha全体で、9.3%の122haが、公園になっています。

 緑道は、学校用地や集合住宅沿いに配置され、それらの敷地の20%を保存緑地として提供してもらい、緑道の厚みの乏しさを補ってもらいます。緑道本来の10〜40mの幅員も、保存緑地のせいで100mに達している場所もあります。緑道や公園の緑は在来の木々が主ですから、ほんの少しの技能と個人の体力に合わせて、緑の「愛護会」に参加できます。
港北NTは、市民参加で街づくりを進めてきました。公園の利用のほかに、管理に参加する楽しみもあるのです。                     
                               以上

2001年09月16日

港北ニュータウン・緑道(4)

■■ 港北ニュータウン・緑道(4)・・・・・・・・・・・・・       都筑区      清水 浩

    「緑道の裏話」 
                         
 港北ニュータウンの表道路は緑道で都市計画道路は表道路ではない。今までの概念で言えば車が通る道が表で、商業施設が張りついて賑やかなのが常道であるが、港北ニュータウンの設計意図は静かで緑に覆われた道がメイン道路である。
 緑道の表土は柔らかい土であり、ハイヒールを履いた人のためになっていない。ハイキングにハイヒールを履いて行く人はいない。設計段階で、管理上から言って乳剤舗装をすべきであるとの議論もあったが、土肌の道路になっている。言わば自然保護で緑の豊さを第一義とした。生活・文化としては、高校・大学の美術部の学生の彫刻や石膏を並べる話もあった。今問題になっている落書き箇所に美術愛好者に明るい絵を描いてもらおうとも考えた。それぞれの町内会で絵画好きな人が立候補して競作してもよい。
 緑道は、大人に人気があるが、若者子供には阪急の観覧車の方に人気がある。それは前述したように使い道が分からないからかも知れない。緑道を活用した小学校・中学校の学校対抗マラソン大会の実施もある。言わば活用方法の宣伝である。それには早淵川を挟んだ北の地区と南の地区を結ぶ緑道の繋がり(連結)が急務である。
 その一つとして、河川敷に桜を植えて並木を作ろうと市民が苗木を寄付すると言う話があったが、用地管理上の都合で許されなかった。若し、植えられていたら桜の名所になっていたことであろう。
 江田方面では、南北地区の幅が狭いので、早淵川に歩行者専用の吊り橋でもかけて連結したいという話もあった。何れにしても外周十五キロ、内周九キロと説明してきた。繋がらなければ半分しか出来ていないと言えよう。
 緑道の管理は、横浜市の西部公園事務所になっているが、管理が行き届かないので幾つかの愛護団体に除草器具などを貸し与えて地元の協力も得ているようである。それでも草茫々なので個人にでも審査の結果作業する人を特定し除草を委託したら、その者たちは競って管理する事になろう。現に集合住宅に属する竹林、雑木林の管理は行届いている。
 茅ヶ崎地区公園には生態園が有って自然の動植物を保護しているが、そのためグリーンマトリックスの繋がりが途絶え一般車道に出る、仕方ないこととして歩道を三メートルぐらいに広くして貰いたいという意見もある。ある意味では設計上の配慮が足らない。又、緑道は、暗くて物騒だという意見もあるが、あまり街灯を付けて明るくすると植物の生態が狂うという実態もある。
 緑道は、大体が谷間に設計されていて水の流れがついている。清水の湧き水を頼りにしているが、干ばつになると流れがなくなり寂しい。港北ニュータウンでは、せせらぎの水源に井戸を掘ることが許されているが、電気代など管理費が問題となる。港北ニュータウンの区域は、減歩として既に応分の負担があって成り立っているので、都市計画税の一部で、地域の景観を維持するような管理費は補ってもらいたい。
                                             以上

 

2001年09月02日

港北ニュータウン・緑道(3)

■港北ニュータウン・緑道(3)  ・・・・・・・    緑区  多賀 和幸

 。。。緑道は少年、少女時代へのタイムトンネル。。。

 大型台風が通過したあと、残暑が戻った薄曇りの日曜日の夕方、私は愛用の自転車に乗り、緑道を走ってみようと思った。緑道は以前、妻と市営地下鉄の仲町台駅で降り、せせらぎ公園近辺を歩いただけであったが、都会の住宅地のなかに、細々と作られた緑のオアシスというなんとも想像力を掻き立てられる存在であった。
 鴨居駅前の鴨池人道橋を渡り、建設中の鴨居大橋の下を潜り、松下通信のビルの脇を真っ直ぐに北に進むと、中原街道と横浜上麻生線の交差点に出る。交差点の近くの石橋というバス停を右側に上がってゆくと、加賀原のバス停近くにシンフォニックヒルズに入る立体交差の陸橋がある。ここからのレンガ造りの道が緑道につながっている。
 月出松公園に近づくと、せみの声がシャワーの如く降り注いでくる。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、なんとヒグラシの鳴き声まで聞こえてくる。ああここだけは空気が違っていると感じた。不思議に懐かしい風が吹いている。少年時代、毎日のようにせみを虫かごいっぱいに取った記憶が蘇ってきた。そういえば、最近はせみをとる少年達をほとんど見かけない。
 月出松公園の案内板を見ると、ゆうばえの道という名前が付けられていた。犬を連れて散歩している人が多い。
しばらく走ると奇妙な台形の丘があった。これは川和富士公園である。自転車を止め、頂上まで登ってみるとちょうど真っ赤な夕日が沈むところであった。少年野球のチームが坂道を登ってきた。
 見花山では夏祭りに出会った。焼きそばやおでんの屋台は、張り切っている町内の親父さん達の模擬店であろう。浴衣を着た少女達や奥様がたが少しまぶしい。大学生の頃、夏休みはほとんど信州の学生村ですごしていた。村の盆踊りにはよく参加した。村人に勧められた焼酎を飲みながら星空の下で踊ると、腰が抜けるような感覚になる。調子に乗って郷里の盆踊りで、正調木曾節を踊ったら、すぐ見合いの話を持ち込まれて困った。
 鴨池公園ではアヒルが2羽、地面にうずくまり動こうとしない。こどもログハウスの前を通り葛ケ谷公園を走り抜け、せせらぎ公園に着いたときは6時半頃ですっかり日が暮れてしまった。せせらぎ公園は古民家を背景に広い池があり、洗練された美しい公園である。仲町台の新しい街並の賑わいと明るさが、公園の静けさを引き立てている。せみの声とは違う、何かが弾けるような声が頭上から聞こえる。雀のお宿のようだ。修学旅行の生徒達のように眠る前に大騒ぎしている。
 それから折り返したが、すぐ道は車道に出てしまった。葛ケ谷公園への道を探しながら引き返したが、またせせらぎ公園にもどってしまった。益々辺りは暗くなってくるし、これは緑道ではなく、迷路ではないかと心配になってきた。
道端に中学生くらいの少女達が3人座っていた。彼女達に道を聞き、やっと迷路を抜け出した。暗い林の中で、こんな時間に少女達が遊んでいる。夜の緑道はまた不思議な一面を見せる。家に帰り着いたのは8時を回っていた。

港北ニュータウン緑道ハイクコースとせせらぎ公園古民家園
http://www.yk.rim.or.jp/~harujun/ntown/ntprk.html
セミの家
http://homepage2.nifty.com/saisho/Zikade.html

Posted by omni at 13:12

2001年07月15日

港北ニュータウン・緑道(2)

■■ 港北ニュータウン・緑道(2)・・・・・・・  都筑区  江幡千代子

「ニュータウンの緑道」が、どんな記憶を包んでいるかは私たち新住民にはわからない。

横浜市は、開発の条件として地権者に土地の3割を公共用地として提供を義務づけた(減歩)。だから緑道には地権者への配慮として、土地の記憶を残す工夫がされているという。
まず1987年春から約2年間、毎月みんなで緑道を歩くことにした。「鴨池」に集合して東に西にの「じぐざぐさんぽ」だ。そして面白いことに気がついた。緑道から脇にそれたニュータウン以外の山道や農道、人家の里道がどきどきと楽しいのだ。道は家の庭先につながり、おばあちゃんがござを広げて干し物をしている。道の角に赤い衣装を着たお地蔵さんが並び、花が飾られている。
それらは公道の「緑道」にはない。土地の人たちのそんな「記憶」を盛り込むのは短期間の図面上では無理というもの。真っ新な生まれたばかりの緑道が私たちの前に広がっている。
その緑道を、私たちはまず生協の祭りの会場にした。陸橋の下のトンネルはその響きを生かしてバロックコンサートに。 そのそばにはカフェテラスを設けた。
 緑道100はフリーマーケットに。少女たちが芝の上でダンスをしている。森を走り回ってクイズラリーをしている。
1995年、その同じ会場葛が谷公園で私たちは「第一回つづきの丘薪能」を開催した。3000人の観客が中秋の名月の下、虫の音に包まれながら「松風」「村雨」の舞いに酔った。緑道には竹で作った「行灯」がゆれていた。

 私たちの生活の記憶を刻んで、緑道は続いていきます。
                        
☆みみより:緑道マップづくりが進んでいます…
都筑区区政推進カの企画調査係では、今緑道マップを作成中。「緑道がどうつ
ながっているのか、みどころは、休憩所やトイレは…具体的な情報が欲しいで
す・・」 
  全長15キロのイラストマップの出現はもうまじか…
        港北ニュータウン「ふれあい」第20号 6/2001より

2001年07月01日

港北ニュータウン・緑道(1)

■■ 港北ニュータウン・緑道 (1)・・・・・都筑区  江幡千代子

。。。ひとのみち・緑道。。。
                          
 15年前の夏。転居してきた翌日、買い物のため団地を出た。雑木が両側に木陰をつくる涼しい道だった。
10分あまりの近隣センターまで、その道を歩きながら感じた幸福感が忘れられない。敷石、蛇行した階段の先に光る池があって、鴨が泳いでいた。植え込みも深い広々とした歩道橋。その先には小高い丘があって、銅板葺きの立派なあずまやがあり、深い斜面には巨大な杉の木が林立していた。緑道は二股に分かれ、何処までも続いていた。
 あの至福感の理由。端的に言える。自然に出来た道ではなく、人が、デザインした道だからだ。そこには、センス、熟慮、理想、やさしさが満ちていた。
 後に、それに関わった人たちの話を聞く機会を持って、ニュータウンの理念を知った。計画都市構想。それは飛鳥田市長時代の昭和40年、スプロール(乱開発)をさけてはじまっている。
 その理想のまちの骨になる部分が「グリーンマトリックスシステム」で、都市の中の様々な空間(公園、広場、集合住宅、文化財、神社、仏閣、樹林)の緑の資源を緑道、歩行者専用道路で結んで体系化するというもの。緑道は総延長14.5 Km。ぐるりとつながるエンドレスな道だ。
 
 理想のまちニュータウン、その緑道…。その構想の具現化は、そこに住み
はじめた私たちにゆだねられることになる。